・トレーニングの部分の用い方は?
・ウォーミング・アップとふりかえりは必ず必要ですか?
・プログラムを独自に開発する必要はあるのでしょうか?
「見通し」と「広がり」に関するもの
学校での導入・実践に関するもの
・「総合的な学習の時間」で取り組んでもよいのでしょうか?
・教科で取り組むことは可能でしょうか?
・取り組みをどう学んでいけばよいのでしょうか?
・なぜ学級単位の実施は好ましくないのでしょうか?
・領域を分けるのはなぜですか?
・「子ども同士の支えあい」は修学旅行や学級活動でもできるのでは?
・異学年の組み合わせは、どれが適当でしょうか?
・小学校の場合、なぜ6年生中心の活動でよいのでしょうか?
他の手法との違いに関するもの
・グループ・エンカウンターとの違いは何ですか?
・これまでに学んだこと(エンカウンターの技法など)をどう生かせるのでしょうか?
・ソーシャル・スキル・トレーニングとの違いは?
・「ピア・カウンセリング」との違いは何ですか?
・他の取り組みとの違いは何ですか?
海外の手法との違いに関するもの
その他
・どのような効果があるのですか?
・カウンセリングの知識は必要なのでしょうか?
・トレーニングはカウンセラー等の専門家のほうがよいのではないでしょうか?
・ピア・サポートの資格認定は行われているのですか?
・資格認定制度はあるのですか?
・ピア・サポートの研究会はあるのですか?
トレーニング(「領域-1」)に関するもの
・トレーニングの部分の用い方は?
Q ピア・サポート・プログラムを見ていると、レクリエーションや学級開きに簡単に用いることができそうなものもあります。そうした使い方をしてもよいのですか?
A もちろん、かまいません。ただし、それで「ピア・サポートをした」とは思わないでください。ピア・サポートは、いくつもの「主活動」を続けて、ある一定の能力を育むように考えられた(プログラム化された)ものです。単発的、断片的に用いた場合、ピア・サポートがめざしている本来の目的は達成できないでしょう。
対人関係上の基礎的なスキルをトレーニングし、さらに子どもがみずからそれを発揮しつつ定着させられる場所や機会を準備する。そうした「見通し」をもって取り組んで初めてピア・サポートだと考えてください。
(『中学校編』146ページより)
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・ウォーミング・アップとふりかえりは必ず必要ですか?
Q ピア・サポート・プログラムの1単位(ユニット)は、「ウォーミング・アップ」、「主活動」、「ふりかえり」とされていますが、ウォーミング・アップやふりかえりは、つねに必要なのでしょうか。
A 必要です。とくに、ふりかえりについては、必ず行なえるだけの時間を確保してください。そうでなければ、ただの「お遊び」か、一時の体験に終わってしまいます。
子どもが自分たちの活動のなかで何に気づいたのかを、彼ら自身にふりかえらせることがいちばん大切なことです。ですから、そうしたふりかえるに足るだけの感情の動きをもたらすようなゲームやロールプレイングを、主活動として準備しているのだと考えてください。
ウォーミング・アップについては、省くことができないわけではありません。子どもの状況をよく見て、短縮したり延長したり、ときには省くなりしてください。
(『中学校編』150ページより)
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・プログラムを独自に開発する必要はあるのでしょうか?
Q トレーニングだけで子どもを変えるのではないとは言っても、子どもの「気づき」をより高めるようなトレーニング・プログラムを開発していくことは、やはり必要だと思うのですが。
A もちろんです。しかし、「よりよい」トレーニングというのは、そこで扱うゲームの良し悪しによって決まるというよりも、それをどういった姿勢で実施しているのか、何に配慮しながら、子どもたちの何を大切にしながら実施しているのかに負う部分が大きいように思います。
そもそも子どもの課題や発達段階に応じて、表現が変えられたり、ゲームが入れ替えられるなどのことは、あって当然でしょう。しかし、ゲーム等を「新しく開発する」ということ自体に大きな価値があるわけではないことに気づいてください。
むしろ、トレーニングを行ないながら、指導者が得た「気づき」を大切にしていくなら、おのずからトレーニングはよりよいものへと変わっていくのではないでしょうか。新しいゲームの導入や開発よりも、子どもの反応に気づいたり、それをうまく受けとめられるような、指導する側の力量の向上という面を大切にしてほしいと思います。だからといって、トレーニングの達人や名人の域に達してほしいわけではありません。集団を扱う教師には当然求められる程度の力量で十分です。
しかも、私たちは、トレーニングそのものよりも、その後の子ども同士の関わり合いをこそ重視しています。そのことが、「広がり」と「見通し」という言葉や、「ピア・サポート」という名前に対するこだわりにもなっています。ですから、子どもにより多くの「気づき」をもたらす「よりよいトレーニングの開発」に夢中になるよりも、子ども同士のかかわりあいのなかで、さまざまな気づきがあったり、深まったり、定着したりすることの多い「よりよい活動の場の提供」にこそ、教職員は力を注いでほしいと思っています。
正直に言えば、ピア・サポートのトレーニングを子どもに行うための準備よりも、今の子どもをどう捉えていくかという点で教職員が合意しあうことのほうが、今の学校現場でははるかに大変なことであろうと感じています。だからと言って、一部の教師が一部の子どもだけを相手に自己満足するというような、従来の試みにありがちな形に終わって欲しくはありません。それではピア・サポートの意味がありません。だからこそ、「広がり」と「見通し」が重要なのです。
(『小学校編』147〜148ページより)
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「見通し」と「広がり」に関するもの
・「見通し」のある取り組みとは?
Q 「広がり」については、学級という枠を越えるということで理解できるのですが、「見通し」について、今ひとつピンときません。もう少し説明してください。
A たとえて言うなら、ピア・サポート・プログラムは「自動車学校」のようなものだとお考えください。最終的には、運転者が一般の道路を誰の助けもなしに責任をもって自由かつ適切に車を走らせることができる(子どもたちが実際の生活場面でみずから判断して適切な人間関係をもつことができる)というのが目的です。
ただ、口で説明されていきなり車に乗せられてもうまくいくかどうか怪しいでしょう。そこで、実際の道路で生じることの多いいくつかの場面を模擬的に再現したのが、自動車学校内のコースです。「直進」、「カーブ」、「S字」、「踏み切り」、「坂道」、などのなかで、段階的に実践力を身につけていくわけです。つまり、段階的に体験させたい事柄がプログラム化されているわけです。そのプログラムがピア・サポートでいう「主活動」にあたります。
しかし、あくまでも最終的な目標は実際の道路での走行です。学校内のコースとは異なり、さまざまな状況が生まれ、時々刻々と変化しているのが一般の道路です。そこで、他の車が実際に走行している道路を使って「路上教習」を行うわけです。自動車学校内の模擬道路では学べない、より実践的な走行を体験するわけです。これに相当するのが、ピア・サポート・プログラムでは、保健委員会の仕事や異学年交流の場面での実践(能力発揮)なのです。一定の制限はあるものの、実際に実践してみるなかで、子どもがいかに多くを学ぶのか、そのことがいかに重要なことか、に気づいてください。
もちろん、本当の意味で車の運転が身につくのは、免許を交付されてからの実体験の場です。ひやっとしたり、ちょっとした衝突を繰り返しながら、安全な運転を身につけていくわけです。子どもたちの対人関係能力も同様です。何もかもを教え込める、訓練できるなどと誤解しないほうがいいでしょう。それでも、子どもの将来まで考えてプログラムや実践の機会を準備していくこと、最終段階までの流れを見通した上で、各時点でどこまでをどのように訓練するのか考えていくこと、などを「見通し」と呼んで強調しているのです。
(『中学校編』148ページより)
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・「広がり」と「見通し」はなぜ必要なのでしょうか?
Q 子どもたちに欠けている対人関係の基礎や基本を気づかせていくのであれば、子どもと毎日接している学級担任が1年間の活動を通して指導していく、という従来のやり方で十分なのではないでしょうか。つまり、「見通し」さえあれば「広がり」はいらないのではないでしょうか。
A そう考える先生方は少なくないでしょう。しかし、そこにいくつかの落とし穴があることに気づいてほしいのです。
たとえば、北欧の学校に見られるように、1年生から6年生までの6年間にわたり、学級の児童も学級担任も持ち上がりで進むような場合であれば、学級内だけでも長期にわたる子どもの発達を見通した指導も可能です。ところが、日本の場合、短いときには毎年クラス替えが行われます。学級担任と子どもの組み合わせが入れ替わるだけでなく、学級担任がそのまま「持ち上がり」になるとも限りません。何年かたてば教師の異動さえあります。ですからいくら「見通し」といったところで、学級担任には実のところ1年間がせいいっぱいの長さでしかありません。
その結果、次のようなことが起きてしまいます。4年生の時にはA教諭を中心にすばらしい学級のまとまりをつくっていたように見えた子どもたちが、5年生になってクラス替えがあり、B教諭やC教諭に受け持たれたとたん、すっかりだらしなくなるというケースです。1年間で確実に完結し、その間に子ども自身の能力として定着するだけの指導ができない限り、一つの学級内の指導だけで十分と考えることには無理があるでしょう。「広がり」なしには「見通し」は成り立ちません。
また、受け持ち教師が変わるとダメになるといった場合、しばしばA教諭とB・C教諭の学級担任としての力量の違いのように片づけられがちですが、本当にそうなのでしょうか。確かに、A教諭は学級担任として子どもをうまく操り、まとまりのあるクラスを作り上げていたかも知れません。しかし、それは結局のところ、子ども自身の力として身についたものではなく、教師の手を離れたとたんに元に戻ってしまうようなもの、A教諭の監視・監督のもとでのみ効果を発揮させられるもの、A教諭の「操り人形」でしかなかった、とも考えられるのではないでしょうか。
学級経営が得意と自負する先生方の中には、「私の学級は私一人で十分」と言う人もいます。しかし、何をもって十分と考えているのでしょうか。それは、しばしば「私一人で管理できる」ということでしかなかったりします。また、「私一人で育てられる」というつもりかも知れませんが、なぜそれで「十分」と言い切れるのでしょうか。せっかく、学校にはさまざまな教職員や子どもがいるのに、なぜ「学級担任だけの影響力」にとどめたがるのでしょうか。
そこにあるのは、結局のところ、「私が彼らをここまでに仕立てあげた」という教師の自己満足のような気がします。そんな思いからなされる活動、そして教師の手を離れたら何も残らないような活動は、どんなに「子ども中心」に見える活動であっても、結局のところ「教師中心」の活動でしかありません。
子どもたちを学校全体の教師で見ていく、育てていく、といった姿勢に立つことが求められる現代において、「学級で」という発想、「学級担任が」という発想それ自体が、もはや「子どものため」とは言えない、というのは言い過ぎでしょうか。「学級で」という主張が、「子どものため」という主張としばしば矛盾することに気づくべきではないでしょうか。
(『小学校編』148〜149ページより)
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学校での導入・実践に関するもの
・「総合的な学習の時間」で取り組んでもよいのでしょうか?
Q 「領域-2」の活動はともかくとして、「領域-1」のトレーニングは、「総合的な学習の時間」として行うには不適当なように思えるのですが、どうなのでしょうか。
A もし、「領域-1」のみを行うだけであるなら、構成的グループエンカウンターやレクリエーションを「総合的な学習の時間」で行おうとするのと同じことになりますから、不適当と言うしかありません。それは、基本的には教師主導の活動に終始してしまうものだからです。
しかし、「日本のピア・サポート・プログラム」の場合には、子どもが主体となって準備し、実践し、ふりかえりを行うという「領域-2」の「お世話をする活動(他に人の役に立つ体験)」がメインであることは、繰り返し申し上げているとおりです。「領域-1」のトレーニングはあくまでもその準備段階なのですから、「領域-1」「領域-2」ともに、自信を持って「総合的な学習の時間」で行ってください。
もし、準備は「総合的な学習の時間」にあたらないと主張するのであれば、体育の時間に行う準備体操は休み時間に行わねばならないことになります。また、「総合的な学習の時間」で行う調べ学習にしても、図書館の使い方やインターネットの使い方を教えられなくなります。放課後に教えるか、基礎的な技法を教えないまま、何でもありの陳腐な活動でお茶を濁させるのか、ということになってしまうでしょう。
運動会の練習や卒業生を送る会の練習を、従来通りのままのやり方、すなわち教師主導で子どもに活動させていくというやり方のまま、「総合的な学習の時間」として実施できないだろうか、といった質問を受けることがあります。それがダメなことは、言うまでもないでしょう。
しかし、それを教師主導ではなく、子ども自らが準備し、活動するというプロセスを明確にし、教師の関わり方もそれに合わせて明確に変えていくとするなら、「総合的な学習の時間」に位置づけることも可能です。すべての教育活動に共通することですが、それが「遊び」に終わらないためには、明確なねらいと、それを実現するための授業計画、そしてそれがその時間(教科)の目標に合致することが求められるのです。
やっていることは同じようなことではないか、という批判は当たりません。まさに、似て非なるものなのです。「見通し」と「広がり」を持って意識的・計画的に行う教育活動として開発された「日本のピア・サポート・プログラム」だからこそ、「総合的な学習の時間」に実施しうるのです。
『実践導入編』の17頁でも述べているとおり、「日本のピア・サポート・プログラム」は、従来からある類似のトレーニングに見られるような、学級担任中心の「人間関係づくり」とは異なります。まさに「総合的な学習の時間」と同じ発想で組み立てられているプログラムであることを、正しく理解してください。
(『実践導入編』79ページより)
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・教科で取り組むことは可能でしょうか?
Q ピア・サポートを国語などの教科に位置づけ、コミュニケーションの授業の一環として教えることについてはどうなのでしょうか。
教科からはじめていくほうが導入も簡単ですし、教科の先生が協力すれば児童生徒全体に広めることも簡単です。
A 教師全体で話し合う手間を避けたいために、学級から、教科から、と考えているのだとしたら、おすすめはしません。「とりあえず一人ひとりが責任をもって自分の学級、自分の授業をきちんとする。全員がそれを実行すれば全体としてもうまくいく」という考え方でいる限り、いつまでたっても学校全体に広がることなどないからです。
全体を部分に還元する考え方は、部分が集まれば全体になるという機械論に立っています。しかし、集団や組織の働きというのは、単に部分の合計ではありません。それらが有機的にかみあったときに生み出される効果というものが存在するからです。
個々の教師の責任範囲を明確にする、という形で学校を分断してきた結果が、現在の学校現場の連携・協力関係の欠如をもたらし、学校を弱体化させているといえるでしょう。そうした役割分担ではすくいとれない、ひきうけそこねる事態があるからです。いじめや不登校、暴力問題、学級崩壊などの解決の見通しがつかない今の状況は、その現れと言えるのではないでしょうか。
また、その問題とは別に、既存の教科の授業の一環として行なう場合には、評価の問題を避けることができません。ピア・サポートを体験した子どもに、よくできたかどうかの評価を与えていく(成績をつけていく)ならば、子ども同士を比較してみたり、集団ごとの平均点を求めてみたりという事態が簡単にでてきてしまうでしょう。そして、「対人関係はマニュアルで教えられる(学べる)」という思い込みだって生みだしかねません。
私たちが子どもに提供するスキルは、あくまでも基礎的なもの、少し前までならば近隣の子ども集団のなかで自然に身につけた程度のものだけです。その成果を、実際の生活の場面でどのように発揮し、それを通してみずからの血や肉にしていくかは、子どもしだいです。もちろん、それが発揮しやすいような場所は教師がきちんと準備するとしても、です。
ところが、授業の一環としてなされ、評価まで伴うとなれば、「子どもたちにより高い気づきをもたらすような指導案」づくりに精を出す教師が現れたり、高い成績を得んがために教師の気に入る態度をとる子どもたちが現れたりしかねません。そうした「洗脳」まがいの取り組みに走らないためにも、既存の教科の枠ではなく、教師からの成績評価を必要としない「総合的な学習の時間」や道徳などの時間に実施することが好ましいのです。
さらに、もう一つの問題は、教科だけの取り組みで終わる場合には、学年を越えて学校全体で子ども同士が支えあうという場を保証することがむずかしくなる点です。
結局のところ、導入にあたって手っ取り早いという、いわば教師にとっての都合が優先される限り、学校づくりのためのピア・サポートは成り立たないでしょう。
(『中学校編』150〜151ページより)
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・取り組みをどう学んでいけばよいのでしょうか?
Q 本を読むだけで、ピア・サポートを実施しても大丈夫でしょうか。
A ワークショップに参加できる方は、参加してみることをおすすめします。百聞は一見にしかずと言いますが、一見することは百読に値するでしょう。ただ、他の先生方の実践を見るだけでも、十分に効果はあります。10年もしたら、多くの学校であたりまえのようにピア・サポートが行なわれていたり、ピア・サポートを体験した子どもたちが教師になり始めることでしょう。その頃には、ワークショップは必要がなくなるかも知れませんね。
(『中学校編』151ページより)
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・なぜ学級単位の実施は好ましくないのでしょうか?
Q 学級を越えた学年の取り組みや学年合同の取り組みは、一般に行なわれています。また、エンカウンターでも学年や学校ぐるみの取り組みはあるようです。改めて「広がり」などと強調する必要があるのでしょうか。
A なぜ学級単位で行うことが好ましくないと考えるのか、何のために学級や学年を越えるのか、という点をよく考えてください。
多くの学校では、学年で取り組んでいると言いながらも、実施にあたっては個々の学級担任が個々の学級で実施するという形を取っていることが少なくありません。それでは、単なる「横並び」でしかなく、学級を越えたことにはなりません。
また、体育館等に集めて誰か一人の教師が中心になって一斉指導を行ったとしても、やはり同じことです。その学年に関わる先生全体で一人ひとりの子どもを見ていく、という考えにたてたなら、そんな不自然な形にはならないはずですがいかがでしょうか。
現在の学校の抱えている問題状況には、少なからず「学級のことは学級担任が責任をもつ」という発想による「抱え込み」がかかわっていると感じます。そんななかで、学級内での体験的トレーニングが運良く効果を上げた場合、「学級王国」をますます助長し、学校の問題状況を温存してしまうという皮肉な結果になってしまいます。
また、学級担任が学級で実施することに難色を示すもう一つの理由は、学級という密室の中で学級担任という権力者がたった一人で「心を揺さぶる」ような活動を行うことの危険性を感じるからです。
こうした活動は、教師の善意と熱意から始まることが多いはずです。それだけに、指導する側の思いこみは強くなりがちで、冷静に事態を見ることができにくくなります。また、子どもがそうした指導を受け入れたくないと感じるようなことがあった場合、相手が学級担任では拒否しにくいという事態も起こります。
だからこそ、複数の大人が関わること、できるなら学級担任はメインでなくサブの立場で関わるのがよいのです。うまくいっても「マインドコントロール」、うまくいかなければ「子どもに対する過大な心理的負担」に陥りかねない活動を行うことの怖さをよく考えれば、安易に学級担任が一人で学級で実施することなどできないはずなのです。
カウンセリングを受けたいと思ってカウンセラーのもとに来る子どもと、そうした思いの有無とは関係なく、その学級にいるというだけで学級担任から「心を揺さぶる」ような指導を半強制的に受けねばならない場合とでは、話が違うことに気づいてください。
自分の学級の子どもの気持ちはわかっている、ちゃんとそうした配慮はしている、といった「つもり」ではあっても、それが独善でないこと、そうならないことを保障することにはなりません。なぜなら、密室の中で大人が一人だからです。そうした事態を防ぐ最も簡単な方法方法(完全ではなくとも)は、せめてもう一人以上の大人が立ち会うことです。
また、トレーニングを受けた子どもを異学年交流の場で育てることを考えれば、学年を越えた教師同士の協力や働きかけが不可欠であることは、当然のことでしょう。
「学年単位や学校単位でやるから進んでいる」などといった形式を問題にしているわけではないことを、誤解しないようにしてください。
(『小学校編』149〜150ページより)
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・領域を分けるのはなぜですか?
Q.ピア・サポート・プログラムを「領域-1」と「領域-2」に分ける考え方は、これまで(たとえば「中学校編」)になかったもののような気がします。
A.確かに、「領域-1」「領域-2」という表現は、この「小学校編」から用いることにしたものです。しかし、「中学校編」のなかにも、たとえば「そうした件連を受けた子どもが、どのような場でそれを発揮できるのか、発揮させたいのかを、明確に想定しておいてほしい・・・・実際の課題に即して、後輩を指導したり、下級生の面倒を見たりという場を与えていくことで、より日常的な場面にも通用する力に転換させていく・・・・そうした活動機会の提供まで含めた『見通し』のもとに実施するからこそ、『ピア・サポート・プログラム』という語を用いている」(『中学校編』22〜23頁)という表現で示されているとおり、「領域-1」「領域-2」の考え方自体は、「日本のピア・サポート・プログラム」の考え方の中には最初から含まれているものです。
ところが、目新しさのゆえでしょうか、即効性があると勘違いされるせいでしょうか、どうしてもトレーニング部分だけが注目され、次に続く活動が見過ごされたり、おろそかになりがちなのです。そこで「小学校編」では、次に続く活動が大切であること、それなしには完結しないことをより明確な形で強調するために、あえて「領域-1」「領域-2」と表現することにしたのです。
そもそも70年代に始まるカナダの「ピア・カウンセリング」自体が、スクールカウンセラーの補助要員をつくる目的で60年代のアメリカに始まったとされる「ピア・カウンセラー(子ども相談員)」制度とは異なり、子ども同士だと相談しやすいといった「教育相談活動」の観点以上に、子どもに相談役を引き受けさせることを通して相談役の子どもをこそ育てるといった「教育活動」の観点から取り組まれてきた活動です。
だからこそ、必ずしも相談活動にこだわる必要はなく、また子どもにカウンセリングのまねごとを安易にさせるのは危険、といった反省もふまえてでしょうか、ピア・ヘルピング(helping)、ピア・メディエーション(mediation=仲裁)といった名称も生まれ、現在のピア・サポートに落ち着いてきたのです。つまり、「お世話をさせる」体験を通して子どもを育てるわけですから、トレーニングで終わるはずはなく、必ずピア・カウンセラー、ピア・ヘルパー等としての活動があるのです。(ただし、日本の学校制度では、そうした相談活動に無理があることは「はじめに」で触れているとおりです)
「日本のピア・サポート」は、本書のタイトルにもあるとおり、子どもが育つ「学校づくり」を目標として、それが「教育活動」であることを最初から明確に意識して開発されてきました。子どもにカウンセリングをさせることを目的とするかのような、「教育相談活動」を意識したり意図したりする活動ではないのです。だからこそ、「ピア・カウンセリング」という紛らわしい名称を避け、日本の既存の活動(生徒会、部活動、委員会活動、異学年交流、等)を活用するようなプログラム開発を行ってきたのです。
「領域-1」「領域-2」という表現は、「日本のピア・サポート」が「広がり」と「見通し」をもった活動である点をより明確に示すために用いるようになっただけです。決して新しく加わった考え方ではありません。
(『小学校編』153・154ページより)
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・「子ども同士の支えあい」は修学旅行や学級活動でもできるのでは?
Q 「領域-2」の活動は、修学旅行や学年遠足ではいけないのでしょうか。学級での集団学習などでも、「子ども同士の支え合い」になると考えるのですが。
A 「日本のピア・サポート・プログラム」は、「お世話をする活動(他に人の役に立つ体験)」を通して、お世話をする側の子どもが「自己有用感」を獲得することをねらいとして開発されたプログラムです。今の日本の子どもの課題である「対人関係の未熟・未発達」の克服という目的があり、それを達成する手法として「子ども同士の影響力」に注目しているのであり、「子ども同士の支え合い」それ自体を目的とするわけではありません。
同じ学級や同じ学年の子ども同士の活動では、全員が「お世話をする(他に人の役に立つ)」側に立つ設定には無理があります。「子どもたちは、それぞれによい面を持っているから、それを活かせば可能だ」といった理想論を唱える人もいます。しかし、それを実現するためには、それぞれのよい面を活かすことができるよう、数多くの活動が提供できなければなりません。そう考えれば、それが非現実的な主張でしかないことは明白です。
公立の義務教育を行う学校で、どの子どもにも9年間の就学義務期間中に、最低1回は「自己有用感」を味わうことのできる体験を提供しようと考えるとき、同学級・同学年の活動ですませようとすることには無理があります。だから、異学年や異校種、地域等との交流を考えるのです。
ところで、なぜ学級や学年での実施にこだわるのでしょうか。他の学級や学年の先生を説得するのが面倒、むずかしい、といった理由でしかないなら、論外です。「自分は、生徒思いで生徒のために何でもしてやりたいと思っている。それを実現する能力も持っている。だが、他の先生はそうではない。だから、自分だけでも…」という思いで「日本のピア・サポート・プログラム」に「個人的に」取り組みたいと主張する先生方と何人もお会いしてきました。しかし、そこに「思い上がり」を感じるのは、私だけでしょうか。
一人の教職員が一人の子どもと関わることのできる時間は限られています。期間も長くはありません。9年間、朝から晩まで、ということはありえないのです。しかも、子どもの側から見れば、彼らを取り巻く様々な大人、友人、マス・メディア等の一つに過ぎません。その一人の大人に過ぎない教職員が、「自分一人でも、頑張れば子どもを救える」のでしょうか。もし、本気で子どもの発達を支援したいなら、他の教職員や保護者を説得し「大人たち」全体の影響力をもって子どもに臨むはずです。
「他の大人を説得する」より「一人でもいいから子どもを直接に変える」ほうが簡単です。一生懸命に洗脳まがいのことをすれば、一人二人の子どもならばついてくるからです。しかし、それでいいのでしょうか。「先生のおかげで私は変われた」と信じている子どもも、いずれは「今度は自分自身で変わりたい。友達と一緒に変わりたい」と成長してくれるのでしょうか。そうした限界に気づけば、すべきことは決まってくるはずです。
(『実践導入編』73ページより)
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・異学年の組み合わせは、どれが適当でしょうか?
Q 「領域-2」の活動には、1年生と6年生の異学年活動と、1年生から6年生までの縦割り活動と、どちらが適当なのでしょうか。
A 「日本のピア・サポート・プログラム」が重視しているのは、「お世話をする活動(他に人の役に立つ体験)」を通して、お世話をする側の子どもが「自己有用感」を獲得することです。それがうまくいくためにはどちらが適当かを考えれば、答は明らかでしょう。
1年生と6年生の異学年活動であれば、おそらくどんな6年生であっても「お世話をする」体験を持つことができ、そこで「自己有用感」を獲得することができるでしょう。ところが、1年生から6年生までの縦割り活動の場合には、自分よりもできのいい5年生がいたり、生意気な4年生がいたり、ということも考えられます。一般的に言うなら、1年生と6年生の異学年活動のほうが、「領域-2」にはふさわしいということになるでしょう。とりわけ、「お世話活動」のデビューを飾るには1年生相手がベストと考えられます。
5年生の3学期に「領域-1」のトレーニングを終えた後、すぐに「6年生を送る会」があったとしても、それは5年生のデビューのためではありません。6年生から5年生に「ひきつぎ」を行うことにより、6年生は今までの活動をふりかえり、「自己有用感」を確かなものにしていきます。5年生は6年生から「ひきつぎ」を受けることにより、新6年生としての活動に対する意欲を高めます。決して、新6年生の最初の「お世話活動」だと誤解してはなりません。
では、1年生から6年生までの縦割り活動は、「領域-2」の活動としてふさわしくないのでしょうか。その判断基準は、本文(23頁)でも指摘したとおり、お世話をする側の子どもが「自己有用感」を獲得することができるかどうか、にかかっています。
たとえば、「日本のピア・サポート・プログラム」がすっかり定着し、「6年生はすごい」「私も6年生になったらあんなふうになりたい」という思いで育ってきた下級生ばかりなら話は別でしょう。また、そこまでいかなくとも、4〜5月の1年生相手の「お世話活動」で6年生が自信をつけ、また教職員が6年生を立てながら、上手に支える体制ができているなら、1年生から6年生までの縦割り活動であっても、6年生は「お世話をする活動」がうまくでき、「自己有用感」を獲得できるでしょう。最終的には、その学校の子どもの状態と教職員の連携協力いかんにかかっている、と言えるでしょう。
この教職員の連携協力という点でも、1年生と6年生の異学年活動のほうが、1年生から6年生までの縦割り活動よりも有利であることは確かです。全教職員の共通理解はいずれの場合にも不可欠ですが、綿密な打ち合わせまでを必要とする人数が1年生と6年生の担任だけですむのか、全教職員になるのか、の違いは大きいからです。大規模校になればなるほど、1年生から6年生までの縦割り活動を「領域-2」とすることには、慎重でなければならないと考えてください。
(『実践導入編』43ページより)
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・小学校の場合、なぜ6年生中心の活動でよいのでしょうか?
Q 6年生を中心とした組み立てが強調されるのは、わかる気もする反面、他の学年はどうすればよいのか、何もしないでいいのか、6年生になるまで待つ必要があるのか、という疑問が残るのですが。
A 6年生を育てる、6年生を立てて学校をまとめる、ということは、必ず学校全体、他の学年にもよい影響を与えることを信じてください。6年生が育つことは、他の学年の子どもにとって「好ましいモデル」を提供することになります。「みんなもあんな6年生になろうね」といった指導ができるようになることで、十分に「おつり」がかえってくると考えてください。
その反対に、6年生を無視したり、バカにしたり、(たとえば)5年生に6年生を追い越すようけしかけたり、といったことの愚かさに気づいてください。そういった態度は、結局のところ教師の指導力を誇示したいだけの自己満足でしかないように、私には思えます。それは、わが子さえよければといった親にも似た、狭量な考えでしかないと思います。
我が子が健全に育つ上で大切なことは、親がしっかりしているということ以上に、まわりの子どもが健全に育っているということです。それと同様に、自分の学級や学年さえ良ければという考えは、決して子どもの発達によい影響をもたらしません。教師一人、親一人の教育だけで子どもが育つわけではないのです。
かつてのピア・グループの特徴の一つは、ほとんどの場合、誰もが一度はリーダーになれた、ということです。6年生(最上級生)になると、成績の良し悪しや腕力の有無とは関係なく、とりあえず集団内のリーダー的な役割を担うという自然の仕組みがそこにはありました。小さい子に気を配ること、全体のことを考えて行動すること、などが期待されるなかで、リーダーはひとまわり大きくなる機会が与えられたのです。
ところが、ややもすると、「平等」とか「実力主義」といった口実をぶらさげて、そうした機会を否定する傾向が、教師や保護者の中に見られるようになってきました。しかし、「平等」というなら、小学校の場合、年齢順くらいに平等なものはないはずです。なぜなら、必ず誰もがいつかは6年生になれるからです。そして、翌年には6年生は必ず卒業しますから、5年生がその座につくことが約束されています。
中学や高校へと進むにしたかい、実力や向き不向きによって役割が決まる傾向があります。しかし、義務教育の最初の段階である小学校くらいでは、誰もが一度はリーダーの役割を経験しておくことが大切だと思います。どんな6年生でも、たとえば1年生や2年生のお世話ならできるはずですし、それによって「お世話をする」側に必要なことに気づいておくことは、とても重要なことのような気がするのです。
たとえば、高校の先生の中には、「ウチの学校は小中学校のときに成績が低かった子どもが集まるから、リーダーシップをとる子どもがいなくて困る」と愚痴をこぼされる方がいます。それが本当ならゆゆしき事態ではないでしょうか。そうした子どもも社会に出ますし、親になってもいくわけです。それで、問題はないとお考えでしょうか。
(『小学校編』151・152ページより)
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他の手法との違いに関するもの
・グループ・エンカウンターとの違いは何ですか?
Q グループ・エンカウンターとの違いについて、もう少し説明してください。
A 本文でも述べたとおり、技法的には似た取り組みです。ただ、その目的が異なっており、そのために実施する単位(どの集団を対象にだれが実施するのか)も異なっているように感じます。
たとえば、学級担任が学級で実施することについて、ピア・サポートでは好ましいこととは考えていません。しかし、エンカウンターではそれが「普通」であるかのような現状があります。
ピア・サポートの場合には、最終的に子ども自身の能力で自立することがねらいです。そのことは、名称からしても明らかでしょう。ですから、いくつかのステップを重ねていくプログラムの形をとりつつ、最終的には指導者の手を離すことまでを組み込んだ「見通し」のもとに実施していきます。
また、子どもの発達を学級という単位に閉じこめる必要はありませんから、学級にこだわることもしません。ですから、その指導を学級担任が行わなければならない、ということもありません。むしろ、学年や学校全体で取り組むような「広がり」にこそ、こだわっています。
取り組みの「広がり」や「見通し」という点で、(現行の)エンカウンターの取り組みとは大きな違いがあると考えてください。
(『中学校編』146ページより)
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・これまでに学んだこと(エンカウンターの技法など)をどう生かせるのでしょうか?
Q グループ・エンカウンターなど別の取り組みで学んできたことは無意味だったのでしょうか。
A そんなことはありません。技法的には似ていますから、エンカウンターに習熟した人であれば、何のため、誰のための取り組みなのか、という点さえ考え直していただければ、ピア・サポートの熟練者になれるはずです。
たとえば、エンカウンターのエクササイズをうまく組み合わせてプログラム化し、その指導を複数の教師たちで行ない、それを活かす機会を学校全体で考えていったときには、それはピア・サポート・プログラムそのものになります。
個々の活動に大きな違いがあるのではなく、あくまでも「見通し」と「広がり」という考え方・進め方にこそ、大きな違いがあります。
(『中学校編』149ページより)
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・ソーシャル・スキル・トレーニングとの違いは?
Q ソーシャル・スキル・トレーニングとはどう違うのでしょうか。
A やはり、技法的には似た取り組みです。プログラム化されているという点ではピア・サポートに近いものであると言えます。というよりも、ピア・サポートも基本的にはソーシャル・スキル(社会的スキル)のトレーニングなのです。
ただ、その「広がり」や「見通し」について、必ずしも明確にされていない、そうした姿勢が弱い、ソーシャル・トレーニングにはそんな印象を受けます。学級を越えるという意気込みと、教師が手を離した場で子ども自らが判断しつつ実践してみる機会。その2つが加われば、ピア・サポートと変わることはありません。
(『中学校編』147ページより)
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・「ピア・カウンセリング」との違いは何ですか?
Q.日本のいくつかの学校では、ピア・カウンセリングが行われてきたようです。それは、「日本のピア・サポート」と同じなのでしょうか。
A.カナダやイギリスでも、ピア・カウンセリングの変わりにピア・サポートの表現を用いることが主流になりつつあることは、第1章で指摘したとおりです。しかし、日本で従来「ピア・カウンセリング」としてなされてきた活動を、私たちが提案している「日本のピア・サポート」と同じものと考えられるかどうかは、まったく別の問題だと考えてください。
私たちが「日本のピア・サポート・プログラム」を「教育活動」として位置づけていることは、これまで繰り返してきたとおりです。だからこそ、「領域-1」「領域-2」という表現や、「広がり」と「見通し」、「学校づくり」といった表現を用いてきました。
ところが、日本の一部の学校で試みられてきた「ピア・カウンセリング」は、あくまでも「教育相談活動」としてうけとめられ、実施されているもののような印象をうけます。たとえば、「子どもたちが相談にあたっている」という点ばかりが強調されていたり、もっぱらスクールカウンセラー(時には養護教諭)が指導にあたっており、他の教職員のかかわりがみえないカウンセリングの初歩を子どもに訓練している、といった点などから、それがうかがえます。
そもそも、子どもにカウンセリングを教えてカウンセラー役をまかせることに対して、私たちは最初から慎重な態度をとってきました。海外のように中高一貫ではない日本の学校制度を考えたとき、そこには無理があるばかりか危険さえあると予想できたからです。それゆえに、「ピア・サポート」という名称に最初からこだわり続け、「教育相談活動」としてではなく、「教育活動」として明確に位置づけてきました。
そうした点から言うなら、従来「ピア・カウンセリング」と称して日本でなされてきた活動と、私たちの考える「日本のピア・サポート」とは、まったく考え方の異なる活動です。「カウンセリング」という名称にこだわってなされてきた活動と、「カウンセリングではない」ことを強調してきた活動とが同じはずがありません。
にもかかわらず、そうしたピア・カウンセリングの初歩を学ばせて成り立ってきた「ピア・カウンセリング」が、最近では「ピア・サポート」の名のもとに流布されようとしていることに、正直、困惑しています。なぜなら、多くの学校関係者などには、私たちの提案してきた「日本のピア・サポート」と「彼らのピア・サポート」(実はピア・カウンセリングと称して行われてきた活動)」との区別が付かないことが予想されるからです。
何よりも私たちが恐れているのは、私たちが繰り返しその危険性を訴えている「子どもにカウンセラーのまねごとをさせる」ことを、私たちの「日本のピア・サポート」が指示しているかのように誤解され、安易に実施する学校がでてくることです。
カウンセラーのスーパーバイズのもとに子どもに行わせる相談活動が、「子ども同士の支えあい=ピア・サポート」の名にふさわしいのかどうか、それはみなさんの判断にお任せするしかありません。ただ、これまで「ピア・カウンセリング」の名の下になされてきた活動は、たとえ「ピア・サポート」と名称変更されようとも、私たちの提案している「日本のピア・サポート」とは別物です。
(『小学校編』154・155ページより)
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・他の取り組みとの違いは何ですか?
Q 最近、アンガー・マネージメント、アサーション・トレーニング、コンフリクト・リゾリューション等の、アメリカで盛んらしいトレーニングについて聞くことがあります。それらとピア・サポート・プログラムとは、どのように違うのでしょうか。
A 本書の姉妹編にあたる「中学校編」では、ピア・カウンセリング、グループ・エンカウンター、ソーシャル・スキル・トレーニングとの違いについて説明しました。基本的には、そのときの回答と同じことが言えます。つまり、トレーニング(領域-1)の部分だけを断片的に見た場合には、それら体験を重視したトレーニングは似ている(ときには、同じでさえある)ということです。ピア・サポートのトレーニングの中には、自分の考えをうまく伝えたり、問題を解決する際の一般的な手順を扱うものも含まれているからです。
ただ、注意してほしいのは、私たちは「トレーニング(だけ)で子どもを変える」とは考えていないという点です。トレーニングは確かに重要です。また、その際に「気づき」に至る子どももいます。しかし、その時点だけで全員の子どもが変わる必要はないとも考えています。なぜなら、その後に続く活動(領域-2)の場面で、子ども同士の関わり合いを通して気づいたり気持ちが深まったりということがあっていいし、それこそが子ども同士の影響力(peer
pressure)であると考えているからです。
ピア・サポートの場合には、 「教職員が子どもを変える、教え導く」と考えてはいませんから、トレーニング中に気づきの少ない子どもを批判したり、そうした子どもを特訓したり、などということもありません。また、成績をつけるようなこともしません。否、あってはならないと考えています。そのことが、「総合的な学習の時間」や「道徳の時間」、「特別活動」などでの実施を勧め、国語や英語の時間での指導を否定する理由でもあります。
また、気づきにはいたっていないと教師が判断した子どもの場合でも、教師の目から見てわかるような気づき方ではないだけかも知れません。子どもの成長を安易に推し量るよりも、機会と場を与え、後は活動を通した彼ら同士のかかわりあいを信頼するという考えに立ちたいと思っています。
結局のところ、「即効性」を求め「対症療法」を売り物にすることの多いアメリカ式のトレーニングと、長い「見通し」のもとになされる「日本のピア・サポート」との最大の違いは、教育や子どもというものをどのように見ていくか、あるいは見ていくことができるか、にあるように思います。そうした長い目で見ることが許されるだけのゆとりをもてるかどうか、だとも言えるかも知れません。
銃を規制することなどありえないという前提に立ち、非行や犯罪の原因は家庭環境等を中心とした個人的な攻撃的資質であると考えるなら、残る解決策は問題を起こしそうな子どもに「怒りの鎮め方」や「銃を用いない解決の仕方」をトレーニングすることしかないでしょう。また、それはそれなりの効果を上げうることでしょうし、即効的でもあるでしょう。
しかし、いじめ、不登校、学級崩壊、暴力行為などに見られる日本の子どもの問題状況の背景にあるのは、対人関係をうまく結ぶことができない、対人関係の失敗を恐れるあまりにストレスをためこんだ、そんな子どもたちの姿であると私たちは考えています。そうであるとするなら、ストレスをコントロールする以前に、対人関係をストレスと感じないような状態にしてやること、ある程度まではスムーズにかかわりあえるようにすること、のほうが大切で意味のあることのように思います。
「日本のピア・サポート」のトレーニングのねらいは、あくまでも社会的スキルの「基礎的」な部分、昔の子どもだったら地域や近隣の人間関係、子ども同士のつきあいの中で自然に身につけてきたはずの部分を補おうとしているだけです。それなしには、いくら子ども同士に任せたくとも、相互の関わり合いすら成り立たなかったり、せっかくの体験をしても「気づく」どころかストレスにしかならなかったりする、と考えるからです。
最初の質問に戻りますが、あくまでも「子ども(同士)が変わる」ことを大事にしたいと考えている活動ですから、教師主導のトレーニングが主目的になることはありません。また、「即効性」を期待した「対症療法」でもありません。ですから、そうしたねらいでなされる、そうした効用をうたう、他の類似の活動とは大きく異なるものだと考えてください。
本書が、「ピア・サポート」という言葉にこだわり、「学校づくり」などという大げさなタイトルを用いているのも、即効的、対症療法的な取り組みではないことのゆえです。
(『小学校編』146〜147ページより)
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海外の手法との違いに関するもの
・海外のプログラムは参考になるのでしょうか?
Q 海外にもいろいろなピア・サポート・プログラムがあるようですが、それらは参考になりますか。
A もちろんです。ただし、エンカウンターなどについての回答と同じことがいえます。個々の活動に使えそうな適当なものがあれば、どんどん参考にしてください。一つひとつの主活動に何を用いるのか、ウォーミング・アップに何を行なうかは、子どもの実情に応じて各学校で工夫していけばよいからです。
ただし、「広がり」と「見通し」という点を強調するのは、「日本のピア・サポート」の特徴です。それは、日本の学校制度や日本の学校文化、子どもの特徴などを考えたときに、せっかくの取り組みが逆効果にならないように、より効果を上げるように、という点から、強調されているのです。
海外においてもそうした点の重要性については変わらないはずなのですが、残念ながらそうした点にはっきりとは気づいていないようです。海外のプログラムを参考にするときは、そうした点を忘れないようにしてください。
今は、インターネットを使うと、かなり多くの情報が得られる時代になっていますから、資料を入手して比較してみるのもよいでしょう。「日本のピア・サポート」の特徴がよくわかっていただけると思います。
(『中学校編』147ページより)
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・イギリスのピア・サポートの特徴は?
Q イギリスでもピア・カウンセリングという名称からピア・サポートという名称に変わってきた、という話を聞きましたが本当ですか?
A 本当です。イギリスのピア・カウンセリングの代表的な例として日本に紹介されてきたものに、いじめ防止の取り組みとして有名なABC(Anti
Bullying Campaign)があります。これは、中等学校の生徒の中から希望者を募り、簡単なトレーニングのもとにピア・カウンセラーとして活動させ、いじめ問題に対する啓発活動を行ったり、いじめの被害者の相談にのったり、いじめの仲裁に入ったり、というものです。
ところが、ピア・カウンセラーのトレーニングはむずかしい、お金がかかる、等の理由から、必ずしも多くの学校で取り組まれるには至っていないのが現状のようです。
その代わりというわけではないのでしょうが、「子どもが中心となった子どもの活動」を総称する形で、ピア・サポートの語が使われるようになってきているようです。そうした新しい流れの中では、ピア・カウンセリングも「相談をベースとしたピア・サポート」と位置づけられ、「仲間づくりbefriending」や「教え合い活動peer
tutoring」などと並ぶピア・サポートの一形態として位置づけられています。
そうした活動の総称である「ピア・サポート」は、そこに幅広い活動が含み込まれていることもあって、ピア・カウンセリングだけのときより普及しつつあるようです。
ただし、ここまでの説明からおわかりいただけるとおり、「日本のピア・サポート」の内容とイギリスでピア・サポートと呼ばれている内容とには、かなりの違いがあります。
「日本のピア・サポート」の場合、単なる子ども中心の活動ということではなく、基礎的な社会的スキルのトレーニングを行うこと、そのトレーニングは子どもの「気づき」を大切にしたものであること、決してトレーニングだけで子どもを変えようというのではなく、その後の様々な活動場面の中で子どもが育ち合うことまでを含む全体でピア・サポートであること、だからこそ「広がり」や「見通し」をもって学校全体で計画的に取り組むことが大切になること、などの明確な「こだわり」をもっているからです。
私たちの「日本のピア・サポート」は、日本の子どもや学校の問題状況を解決するための手法として、従来の日本の活動に欠けていた点をカナダやオーストラリアのピア・サポートから学びつつ、日本の状況に合う形に再構成してきたものです。その際、「ピア・サポート」という表現をそのまま用いることにしたのは、単に海外の「ピア・サポート」の手法を参考にしたからという以上に、その背景にある「子どもは子どもの中で育つ」という考え方に共感するからこそです。
ところが、イギリスの場合には、その定義や、従来の活動との違いなど、必ずしも明確にはなされていないのが現状です。ですから、ピア・サポートの活動であると紹介されて学校現場を訪問すると、そこで目にするのは日本でいう「学級会」の「話し合い活動」程度のものでしかなかったりもします。
ですから、イギリスの活動を参考にする場合には、日本のみならず、カナダやオーストラリアと比べても、中身が広く浅い可能性が高い点に注意が必要でしょう。
(『小学校編』150・151ページより)
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その他
・どのような効果があるのですか?
Q ピア・サポートに取り組むと、いじめや不登校が減ったりなくなったりするのでしょうか。
A 効果はあると確信していますが、即効性や劇的な変化は期待しないでください。いじめや不登校に限らず、ピア・サポートにかかわった子どもすべてが、目の前でどんどん変わっていくような事態を期待しているとすれば、それは期待はずれに終わるでしょう。この取り組みの成果が、すぐに現れる子どももいれば、数年先に現れるという子どももいます。そんな気長な取り組みなのです。
今の子どもの「心」は、「病気」というのではないのですが、なにがしか「不健康」な状態にあるように感じます。それは決して「栄養失調」というようなことではなく、ビタミンやミネラルが欠乏してうまく身体を調整できなくなっている状態に似ている気がします。つまり、普通だったら知らず知らずのうちに補われているはずの要素が、食生活やライフスタイルの変化によって欠けてしまい、その結果、身体が不調になっている、そんな状態に似ているように思えます。
ピア・サポートは、「心」のエネルギー補給と言うよりも、「心」のミネラルやビタミンの補給に近いものです。そうしたものを補ってやることで、子どもたちがとったさまざまな栄養分を、上手に吸収したり、上手に使えるようになってほしい、そんな取り組みと考えてください。
(『中学校編』152ページより)
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・カウンセリングの知識は必要なのでしょうか?
Q ピア・サポートを適切に行うには、専門的なカウンセリングの勉強が必要なのではないでしょうか。
A そんなことはありません。ピア・サポートの先進国であるカナダやオーストラリアでも、スクールカウンセラーは必ずしも心理学的・精神医学的なカウンセリングの資格が義務づけられているわけではありません。逆に、一定の教職経験が必要とされています。
日本の場合、カウンセリングの勉強を専門的に行なうということは、個別カウンセリングを学ぶ、ということを意味することがほとんどです。しかし、それはピア・サポートとはまったく別の取り組みです。ですから、そうした勉強がピア・サポートの実施に役立つことがないとはいいませんが、場合によっては妨げになる可能性もあるくらいです。
ただし、精神的な弱さをもつ子どもに対する配慮は必要ですから、カウンセラーや精神科医など、身近にアドバイスを受けられる方がいる場合には、一緒に参加していただくこともよいことです。そこに壁をつくっていく必要はありません。
(『中学校編』149ページより)
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・トレーニングはカウンセラー等の専門家のほうがよいのではないでしょうか?
Q このようなトレーニングを行なうのは、教職員よりもスクールカウンセラーなどのような専門家が行うほうが良いのではないでしょうか。
A スクールカウンセラーのような立場の人が関わることは大歓迎です。しかし、そうした人が中心になって実施していくことについては、決して望ましいことだとは考えていません。
そもそもトレーニングだけを切り離してカウンセラーに、という考え方がおかしいことは、「日本のピア・サポート」がトレーニング(領域-1)だけで成り立つ活動ではないことを理解していただいていればわかることです。その後のフォローと一体になることなしには、その効果は期待できません。そうした活動の場(領域-2)の設定は、スクールカウンセラー等の外部の専門家、パートタイムのスタッフには決してできないことです。言いかえれば、学校経営を担うことのできる教職員だからこそできることなのです。
もちろん、外部の専門家の協力はありがたいことですし、大いに活用してほしいと考えています。しかし、傷ついたり病んだりした子どものケアが専門的知識や技能をもつ大人(医者やカウンセラー)の仕事であるように、子ども同士の関わり合いをいかに保障するのかは教育の営みであり、そうした専門的知識や技能をもつ大人(教師)の仕事です。常駐のスクールカウンセラーが配置されるようになり、教職員と一緒になって子どもの発達を保障していく、学校の経営を行っていくということにでもならない限り、カウンセラーが先頭に立って取り組むピア・サポートがうまくいく可能性は低いでしょう。
ピア・サポートのトレーニングを担当できる資質をもつ教師は、小学校にはたくさんいるはずです。なぜなら、教室や運動場で集団の子どもをまとめあげていくテクニックは、ピア・サポートのトレーニングに相通ずるものだからです。逆に、一対一のカウンセリングに秀でているからといって、集団相手のピア・サポートのトレーニングができるかとなると、まったく保障はできません。それらは別のテクニックだからです。
トレーニングだけをやらせてほしい、やってみたい、というカウンセラーの方からの相談も少なくないのですが、学校の教職員が中心になってピア・サポートに取り組もうとする体制がない限り、ピア・サポートの成功はありえません。まずは、先生方を説得して仲間を増やしてから始めることです。
もし、それが無理なようなら、ピア・サポートとは違う、「トレーニングだけで変える」ことを標榜している別のプログラムを探していただくことをお勧めします。ピア・サポートという名称や学校づくりという考えにこだわる必要がない分、カウンセラーの方には向いているように思います。ただし、カウンセリングとは異なりますから、半強制的に参加させられる場において、人の心を安易に操作するようなことのないよう、くれぐれも注意していただきたいと思います。
(『小学校編』152・153ページより)
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・ピア・サポートの資格認定は行われているのですか?
Q ピア・サポートの資格を認定するような動きはあるのでしょうか。
A 現時点では、そうしたことは考えていません。ピア・サポートに取り組む者への最大の評価は、子どもの反応と子どもの成長です。そうであるなら、権威ある誰か、権威ある何かによる「認定」は必要はないはずです。
ただ、相互の研鑽や交流のために情報交換会やワークショップを開く団体や集まりがでてくることは歓迎すべきことだと思っています。横浜ピア・サポート研究会も、そうした団体とは対等の立場でかかわり、互いに指導・援助しあっていきたいと思っています。
また、海外の類似団体とも対等な形で交流をはかることは意味があると思っています。なぜなら、彼らの気づいていない点に私たちが気づくことがありうるからです。「日本のピア・サポート」が海外のPeer
Supportに影響を与える可能性は十分にあります。しかし、歴史的に早いということをもって「海外の取り組みが日本のものより優れている」と決めつける態度については、はっきりと拒否すべきだと考えています。
また、横浜ピア・サポート研究会は、自分たちの組織の地位向上や他との差別化のために、「ピア・サポートの公式認定」を売り物にして他を排除しようとするような団体とは、明確に一線を画したいと考えています。認定を受けているから優秀だといいきれないのは、現行の種々の資格にも見られることです。
学校経営や授業についての実践や研究が一部の研究者や学会に独占されてよいはずがないように、ピア・サポートの実践や研究も幅広い関係者で検討され育てられていくことがいちばんでしょう。
(『中学校編』153ページより)
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・資格認定制度はあるのですか?
Q.ピア・サポートのスキル・トレーニングを子どもたちに行うための資格や、資格認定制度のようなものはあるのでしょうか。
A.まず、お断りしておきたいのは、本書で繰り返しているとおり、「日本のピア・サポート」の活動は、決してトレーニングだけで終わるものではないこと、それだけを切り離して考えることはできないこと、の2点です。
トレーニングの目的は、あくまでも「社会性の基礎」を補うような体験を提供すること、できればそこで対人関係というものに気づくこと、さらにはある程度の社会的スキルが身につくこと、です。ただし、全員がトレーニングの中だけで「気づき」を得たり、スキルを身につけたり、という必要はないと考えています。むしろ、そうした態度や能力は、その後に準備されている活動のなかで、子ども同士がかかわりあう場を通して、ゆっくりと身につくものだと考えているからです。トレーニングは、あくまでも「下地づくり」であって、トレーニングで子どもを変えるわけではないのです。
では、そうした基礎的な社会的スキルのトレーニングには何が必要になるのでしょうか。私たちは、指導する者の適性や資質のようなものが求められるのではないか、と考えています。そうは言っても、特別の何かというわけではありません。複数の子どもを同時に指導しつつ、個々の子どもの反応に目を配ることができるような、いわば経験をつんだ教師であれば、誰もが身につけているはずの能力を想定しています。それがあれば、本書を読んで実施上の注意を十分理解していただければ大丈夫だと考えています。
ただし、トレーニングとは言っても、子どもの気持ちを揺さぶるものも含まれていますから、実施にあたっては慎重でなければなりません。その「慎重な実施」に不可欠なのが、繰り返し強調しているように、複数の大人が立ちあう・かかわることです。どんなに熟達している指導者であっても、学級担任の立場で学級の子どもを一人で指導することを否定する理由の一つは、この「慎重な実施」のためなのです。
指導者のトレーニングを徹底して資格認定する、事後のスーパバイジングをする、などのやり方よりも、トレーニングの際にもう一人以上の大人を立ちあわせることのほうが、「慎重な実施」を保障するうえでずっと効果的であると、私たちは考えています。
そもそも一人の名人芸に委ねるしかないほどの高度なテクニックは、私たちは不要と考えています。逆に名人芸に依存する活動が簡単に密室状態でなされていくとすれば、そのほうがはるかに危険でしょう。「日本のピア・サポート」の活動は、トレーニングもその後の活動も、開かれた場でなされるべきものと考えています。指導する大人同士のピア・サポートがつくれないような学校では、安易に導入すべきではないと思います。
そういうわけで、私たちは「日本のピア・サポート」のトレーニング部分だけを切り離し、その部分だけの指導者を資格認定するといった考えはもちあわせていませんし、そうした必要もないと考えています。
(『小学校編』155・156ページより)
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・ピア・サポートの研究会はあるのですか?
Q ピア・サポートについて詳しく勉強したいのですが、研究会はありますか。また、そこは、どんな活動をしていますか。
A 日本で早くからピア・サポートの研究・実践に取り組んでいる団体として、横浜ピア・サポート研究会があります。ピア・サポートという、今はまだ新しい考え方や活動が、教師やカウンセラーの都合の良い使われ方をされるのではなく、同じ社会に生きる子どもと大人の関係づくりに役立つものとして育つように、情報交換や資料の作成等を行っています。
また、より具体的にピア・サポートを知ってもらうために「入門用ワークショップ」や「実践用ワークショップ」を開催してもいます。本書のようなテキスト類の作成にもかかわっています。
同じような主旨の研究会が、日本各地にできることを期待していますし、そのためのバックアップも行っていきたいと考えています。
(『中学校編』152ページより)
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